■プロフィール
1974年8月12日生まれ。埼玉県狭山市出身。
7期生として川越東に入学し1993年に卒業後、駒澤大学法学部政治学科入学。 大学卒業後は広告会社勤務を経て、2004年に広告・販促のビジネスマッチンクグ&コーディネーションのビジネスコンシェルジュ業務に特化したTMコミュニケーションサービス株式会社を起業。2011年東日本大震災を経て、リユースビジネスと社会貢献寄付を組み合わせた『お宝エイド』を開始。一般社団法人相続支援士協会専務理事、相続診断士、准認定ファンドレイザーとして、相続・遺贈問題、NPO団体支援にも取り組む。会社経営のかたわら、 現在、慶應義塾大学経済学部にてソーシャルビジネスについて学ぶ。






――当時の高校の様子を教えてください。
 受験する当時は正直存在自体もあまりよく知らなくて、中学校の先生の紹介で知ったのがきっかけで、学校へ行ったのも受験生になってからでした。初めて行った時は、やはり「あ、こんなに遠いんだ」と感じました。
 今でこそ野球部などの活躍で名前が広まって来ていますが、当時はどちらかというと星野女子の方が有名で「星野女子が作った男子校」ということしかイメージがなかったですね。

――私も似たような状況でした。中3の時になんとなく知って、初めて学校へ行ってみてその遠さに愕然とするという(笑)
 今では入学して良かったと思っています。何もなかったというところが逆に価値があったのかなと。
 全てが与えられていて整った状況よりも、「こういうことをしてみたい」ということを先生に伝えて一つ一つ作り上げていくというようなことを学ぶことが出来たと思います。
 自分たちで誰にどう話を通して、どういう順番で、どう動くのかというようなことを高校では教えてもらったのではないかと。

――学校だけではなく、生徒たちと共に手探りで学校を作ってきたという歴史があったんですね。
 そうですね、僕は入部による部活動は行っていなかったのですが、クラブ活動の時間では、せっかくこんな広いのだからと同級生何人かを集めて「ゴルフクラブを作ろう」と動いたりもしました。
 入学式の頃から、「皆さんが自分たちで作っていく学校だから皆さんが意見を言って行かないといけない」という話があったことも覚えています。ですので、先生たちにも「まずは声をあげてくれ」という姿勢がありました。

――私が在校していた時期(11期)と若干違う雰囲気ですね。我々の頃は既に色々と整備されてきているような感じがありました。
 ええ、そういう状況だったからこそ「何もないところから作って行く」という考え方が当たり前になっていったところがあって。


生徒の自主性を重んじるのが川越東の校風

――環境が人を育てるということですね。
 そうですね、正直便利とは言い難いところで逆に新鮮に感じるところが多くありました。文化祭で女子高生がたくさん来たときは「世の中にこんなに女子高生がいるんだ」と思いましたし、北海道での修学旅行のスキー合宿ではインストラクターが外国人の女性だったのですが、しかも、その方が日本語が全く話せない方だったことも皆で驚きました。
 学校側が「生の英語に触れさせよう」という意図だったのかもしれませんが、もう一気に色々なことが舞い込んだ感じでした。私たちは仲間内でゴニョゴニョと話をしてはいましたが、インストラクターの先生には何も言えないという。それでもわざと倒れて助けてもらおうとしたり、さらに夜はそれぞれのインストラクターの話で盛り上がるという、これは男子校ならではですかね(笑)

――男子校ならではの感覚については私もとてもよく分かります。なかなか高校の話をここまで具体的にお話いただいたことがなかったので、興味深いです。では、大学時代以降についてのお話をお聞かせいただきたいのですが。
 駒澤大学法学部に入学したのですが、そのきっかけは西武ライオンズの黄金時代を築いた選手である石毛宏典さんへの憧れからでした。
 高校生活が終わろうとする中で、大学を決める時というのは多くの人にとって、これからの人生について立ち止まって考える時でもあると思います。少年期から脱却し、大人としての人生を意識し始めるころでもあり、さらに私の時代はミュージシャンの尾崎豊や深夜特急でも有名な沢木耕太郎などに触れ、自分の足で人生をどう生きていくかを意識し、その第一歩として大学選びというのがあったような気がします。
 私はそのなかで、「自分はもともと何になりたかったんだろう?」と自分を振り返ってみた時に、少年野球に熱中し、「石毛さんみたいになりたかったんだ」という想いから、「プロ野球選手になる小さい頃からの夢はあきらめたけど、物心ついた時の原点に戻ろう」と思い、石毛さんと同じ大学に行こうと決めました。

――ちなみに石毛さんのどの部分に一番惹かれたのですか?
 もう全てですね。団塊の世代の方が長嶋さんに憧れるみたいな。
 小さい頃から毎試合のように西武球場に足を運んで、年に多い時には40試合くらい球場に行くぐらいの西武ファン、いや石毛さんのファンでした。ちょうど、所沢に西武ライオンズが出来て間もないころで、小学校に入って野球をはじめ、熱中した80年代は西武ライオンズの黄金期の最中でした。もう石毛さんしか見に行っていないような感じで、プレー一つひとつはもちろん、リーダーシップや発する言葉、何をやっているのにしても輝いて見えました。
 ですから、野球少年の小さい頃からの想いとして、石毛さんと同じく駒大を出てプリンスホテルを経て西武ライオンズにドラフト1位で指名され、「お前しかいない」と石毛さんから言われて背番号7を引き継ぐことが夢でしたから(笑)。

――まさに憧れのスーパースターですね。
 その後、社会人として起業していった中で、駒大の同窓会で石毛さんと同じく駒大OBであり、元DeNAの監督でもある中畑清さんとご縁を持つことが出来ました。私の結婚式でもお得意の歌を披露していただくぐらいかわいがっていただきました。そして、更には、私の仕事に間を取り持ってくれて、石毛さんが宇都宮まで講演に来てくれた時が石毛さんとの初対面でした。それ以来、ことあるごとに気にかけていただき、石毛さんのおかげで今の自分があると思っています。
 自分の小さい頃からのスーパースターとのご縁も作ることが出来て、改めて同じ大学を選んで良かったなぁと感じています。

――それは凄いですね。なんというか、小さい頃からの憧れの人と縁を持ってそして一緒に仕事をしてしまうというのが凄いです。
 たまたま、運がいいだけだと思うんですが、一つひとつの選択の中で「自分はこれが好きだ」ということを周囲に言い続けていくことは大切だと思ってます。言い続けたことによって周りの人が気に留めてくれたりして、機会があったときに思い出して、繋げてくれるみたいな。
 ですから、自分が好きな物や憧れているものはどんどん周囲に公言をすべきだと思います。
 周りも自分が「何々を好きな人」と覚えてくれて配慮してくれることがありますからね。

――まさにそうですね、自分が思っていることを前に出すことによってそれが広がったりするんですね。
 石毛さんが昔に早朝に放送されていた西武ライオンズの番組の中で受けていたインタビューの中で今でも記憶に残っている言葉があるんです。それは、「一番前を走るものにとって見本や手本などはないから、悩んでいる暇があったら、まず、前に進むよう努力する」という言葉で、小学生だった私には凄く印象に残りました。石毛さんにその言葉について聞いた時には「そんなこと言ったか!?」と言われたのですが(笑)

――その言葉、カッコいいですね。石毛さんへの憧れが自分の考え方に影響を及ぼしてその後の自分に結びついているというところが凄いというか素晴らしいと思います。
 おそらく、ある意味、私は思い込みが強いタイプなのかもしれません。何か自分で上手くいかないことがあっても、仮想のメンターとして、「この場面、石毛さんだったらどうするだろう?」と想像してみるんです。仕事でも、この場面でチームの成果を最大化するために、先頭打者ホームランを狙うか、犠牲バントか、チームをどう盛り上げるかなんて野球に例えて意識して動いたり(笑)
 そのように置き換えて考えてみたところから意外と打開策が生まれたり、問題解決出来るところが結構あったりします。
 つまり心の拠り所なのだと思います。自分が小さい頃から信じてきたものを貫こうと思った時、行き着く選択肢がそこにいくということなのではないでしょうか。今では、私の中の石毛さんの妄想が膨らんでかなり巨大になってますが(^^)

――なるほど、そういった原体験を通して行き着いた先が起業だったんですね。
 そうですね、私は大学卒業後に、モノやサービスを生産する企業と消費者をどう繋げていき、消費者の行動をどう起こし、お金に換えて経済を回していくのかという消費者と企業の関係性モデルを一つでも多く見たいと思い、広告会社を経て独立起業しました。
 広告会社ではドラッグストアチェーン、ホテルなどの様々な企業のプロモーションキャンペーンに関わりました。
 プロモーションキャンペーンに関わると、そのクライアントの社員のようなものなので、それによって多くの業界のコミュケーションモデル、ビジネスモデルを見ることが出来ました。
 その広告会社で働いていく中で、少しずつですがもっと自由にやっていきたいという気持ちが芽生えてきたんですね。
 私たちの世代は、学生時代から起業するという人も増えてきた時代でもあったのですが、私はまずはあえてサラリーマンを経験し、その経験を強みに活かした起業も出来るのではないかということを思って就職しました。人生は、短距離走でもなく、もちろん、正解もなく、ましてや誰かと比較するものではないので、その時代その時代に自分にしかない体験を経験にかえ、RPGのように少しずつレベルをあげて、私なりの人生を歩んでいきたいと思ってました。
 起業を決めたのは29歳で2004年のことだったのですが、当時は1円起業などの政策があったこともあり、起業を後押しするムードがあったことも大きかったかもしれません。
 起業後はお客さんにも恵まれ、13年続けることが出来ているので、結果的には「良くも悪くも全て自分で判断出来る」ということを選んで正解だったと思っています。

常に自分の考えを主張することで自ら道を切り開いて来た三井さん

――現在の会社の形態は広告会社時代のものとはまた異なるものなんですか?
 今ではアウトソーシングやシェアビジネスは一般的ですが、私が広告会社のサラリーマン時代には、外注として発注された会社の担当者が発注元の会社名で名刺を作って仕事をするというケースが多かった時代でもありました。
 ですが、本来はその協力会社さんも自社の名刺を使って仕事したいと思っていますから、その部分をもっとオープンに出来ないかと思い、色んなプロフェッショナルな方々をお客さんのために使いこなすという仕事をしたいと考えるようになりました。
 例えばサッカーの日本代表の監督が試合を行う場合、どういう勝ち方をしたいというのはその監督によって違うわけですから、その考え方をどう持つかによって当然、選手の人選も違ってきます。目標がワールドカップで優勝を狙うのか、ベスト8か、予選リーグ突破かによっても違いますし、また、多くの点を取って勝ちたいのか、最少失点で勝ちたいのかによってもメンバーは異なってきますよね。
 それと同じように、お客さんとなる企業にとって最適なアウトソーシングのコーディネーター役になろうということで始めたのがビジネスコンシェルジュという業態です。ビジネスもスポーツのようにアウトソーシング先も戦略的に常に選ぶ時代が来てもいいのではないかと考え、広告・販促の分野を軸足にそこに特化した会社を作りました。その後、運よくお客様にも恵まれ、経営が継続でき、7年近く経過したところで、あの2011年に東日本大震災が起こりました。クライアントの一つであった大手企業の労働組合で行なっていたボランティア活動で、現地支援に入っているNPO団体への組合員からのカンパ金が、震災から半年くらいして、急に集まりが悪くなってきたんですね。まあ、仕方ないことなんですが。とはいえ、組合の人数規模からすれば他に何か出来ることがあるのではないかということをクライアントと一緒に考えていった時、街中に増え始めていたリサイクルショップの「高価買取」の旗を見て、買取のビジネスモデルを活かすことが出来ないかということになりました。
 そのためには、まずはモノを査定し、売却するためのスキームがどうなっているのかを知る必要があると考え、リサイクルショップのフランチャイズなどの説明を聞きに行ったりして、ビジネスモデルの研究と検証を行いました。その業界のことを知れば知るほど、最終的には大きな可能性を感じました。そこで、まず試しに私の会社でリユース事業チームをつくって、フランチャイズに加盟して店舗を出店し、買取店を運営することからはじめました。学生時代から馴染みのある目黒にたまたま条件のいい物件もあったので、早速、出店することを決めました。まずは、本部の指導に沿って、通常の買取店としての目黒近隣に住む住人に対してのエリアマーケティングを行いながら、付き合いのある労働組合を通じて社員さんに対して家の中に眠っているもの呼び掛けてもらい、NPOを支援する形をテストしながらビジネスモデルを模索しました。
 NPOというのは日本全国に6万程あるのですが、そこにお金ではなく、家に眠っている価値あるモノを寄付することでの社会貢献をパッケージ化出来ないかということで始めたのが「お宝エイド」です。買取業務や店舗運営にスタッフみんなが慣れてきた1年後に満を持してスタートしました。
 実は、この時と前後して、社会的な課題をビジネスのスキームを使った解決するというソーシャルビジネスモデルを体系的に学ぶために、再び大学に社会人として学士入学をしました。まさか、人生で2つも大学に入るとは思いませんでしたが(^^)
 「お宝エイド」は開始して3年ほどになりますが、日本は寄付の市場が小さいにもかかわらず、価値観の変化という時代の波もあってか、モノであれば寄付しても良いかなという人も増えてきているように思います。
 少しずつ一緒に取り組むNPO団体が増え続けたあたりで、この「お宝エイド」についてアメリカのビジネスアワードでビジネスモデルの発表しないかという話をいただきました。海外で認められれば広まるスピードが早くなるのではないかという想いもあったので、応募してみたところ、世界各国の企業が集まる「スティービーアワード」で非営利組織への資金調達部門で運よく金賞をいただくことが出来ました。ちなみに、銀賞がニューヨーク、ブロンズがトルコの企業でした。経済が停滞しつつ、数字上の寄付市場が極めて小さいですが、実は大量生産・大量消費、そしてバブル経済を経験していて価値のあるモノが有り余っているのが日本だと思ったのです。そして東日本大震災を経て、日本人自体の価値観が転換しつつあるなかで、眠っている価値あるものを社会貢献活動の推進力に換える持続可能なソーシャルビジネスパッケージとして、現在の日本だからこそ可能とした私たちの視点を大変評価していただけたのは、とてもうれしかったです。
 それから様々な方々に注目いただけるようになり、国内のビジネスアワードでもWeb投票で全国一位に選出いただくことが出来ました。

国内外のビジネスアワードで高い評価を得ている「お宝エイド」

 通常、買取ビジネスでは広告費の負担というのが凄く大きいのです。
 そこで、店舗で広告費をかけずに、活動に参加しているNPO団体が自分たちの活動支援を呼びかけ、支援の形として、物品での寄付を呼び掛けてもらってます。現在、間もなく100団体近くになろうとしてます。各団体の活動への共感や支援したいという気持ちをのせて送られてきた品物を私たちが大切に査定をし、NPO団体から買い取り、NPO団体は自団体の活動推進の資金の一部にします。お宝エイドはNPO団体との分業といいますか、協働で成り立っています。
 そして、この取り組みによって、NPOへの寄付という形で各自宅で眠っていた「お宝」はお金に形を変えて、社会貢献活動の資金となり、さらに、眠っていたモノが私たちを通じて再び市場から新しい愛用者の手元に届き、再び「モノ」として価値を与えられるという2つの価値を生み出していると思ってます。

――なるほど、普通のリサイクルショップとは似てるようで若干異なるように思いました。
 もともと、目的や始まりがやや違うのだと思います。私たちは労働組合の寄付活動の停滞を解決するところから始まっていて、私たちのお客様はリサイクルショップや買取店と接点のない方々が大半で、現在では全国から毎日何十箱の品物の送付を受けています。

――確かにリサイクルショップに行くよりも社会活動への貢献ということを前提とする方が提供しやすいように思います。
 ええ、この活動を通して、物品寄付という行動が日本に広まっていければいいと思います。お宝エイドについては先日、大学の同窓会会報でもご紹介いただくことが出来ました。

――同じ川越東出身として三井さんが活躍なされている姿が大きく紹介されているのはとても素晴らしいですね。最後に川越東の在校生に向けたメッセージをいただきたいのですが。
 これまでの話でもありましたが、私が川越東で学んだことは「自分から切り開いていくこと」だったと思います。ですから、基本前提として何もないところから、どうやって形を作り、どのようにして賛同者を増やしていくかということが大事なのだと思います。一人の頭で思いつくことには当然限りがあり、多くの人の知恵と汗を集めて、みんなで一緒に作ることに喜びを感じます。お膳立てが整ってない状態で作っていくことは大変なことですが、その分、やりがいもあります。
 周りに畑しかない状態から大きな価値があるものを作ることが出来るのは何もない状態を見ているからこそだと思います。
 川越東高校も30年経ったとは言えど、他の高校から見たらまだまだ歴史が浅いわけですから、満たされていない部分を自分達で作っていくということをより深められればいいのではと思います。

――まさにフロンティアスピリッツですね。川越東の同窓会もこれからというところなので色々と取り組んでいかなければなあと感じました。大変刺激を受けるようなお話が多く、有意義なインタビューをさせていただくことが出来たと思います。本日はお忙しい中、どうもありがとうございました。