――環境が人を育てるということですね。
そうですね、正直便利とは言い難いところで逆に新鮮に感じるところが多くありました。文化祭で女子高生がたくさん来たときは「世の中にこんなに女子高生がいるんだ」と思いましたし、北海道での修学旅行のスキー合宿ではインストラクターが外国人の女性だったのですが、しかも、その方が日本語が全く話せない方だったことも皆で驚きました。
学校側が「生の英語に触れさせよう」という意図だったのかもしれませんが、もう一気に色々なことが舞い込んだ感じでした。私たちは仲間内でゴニョゴニョと話をしてはいましたが、インストラクターの先生には何も言えないという。それでもわざと倒れて助けてもらおうとしたり、さらに夜はそれぞれのインストラクターの話で盛り上がるという、これは男子校ならではですかね(笑)
――男子校ならではの感覚については私もとてもよく分かります。なかなか高校の話をここまで具体的にお話いただいたことがなかったので、興味深いです。では、大学時代以降についてのお話をお聞かせいただきたいのですが。
駒澤大学法学部に入学したのですが、そのきっかけは西武ライオンズの黄金時代を築いた選手である石毛宏典さんへの憧れからでした。
高校生活が終わろうとする中で、大学を決める時というのは多くの人にとって、これからの人生について立ち止まって考える時でもあると思います。少年期から脱却し、大人としての人生を意識し始めるころでもあり、さらに私の時代はミュージシャンの尾崎豊や深夜特急でも有名な沢木耕太郎などに触れ、自分の足で人生をどう生きていくかを意識し、その第一歩として大学選びというのがあったような気がします。
私はそのなかで、「自分はもともと何になりたかったんだろう?」と自分を振り返ってみた時に、少年野球に熱中し、「石毛さんみたいになりたかったんだ」という想いから、「プロ野球選手になる小さい頃からの夢はあきらめたけど、物心ついた時の原点に戻ろう」と思い、石毛さんと同じ大学に行こうと決めました。
――ちなみに石毛さんのどの部分に一番惹かれたのですか?
もう全てですね。団塊の世代の方が長嶋さんに憧れるみたいな。
小さい頃から毎試合のように西武球場に足を運んで、年に多い時には40試合くらい球場に行くぐらいの西武ファン、いや石毛さんのファンでした。ちょうど、所沢に西武ライオンズが出来て間もないころで、小学校に入って野球をはじめ、熱中した80年代は西武ライオンズの黄金期の最中でした。もう石毛さんしか見に行っていないような感じで、プレー一つひとつはもちろん、リーダーシップや発する言葉、何をやっているのにしても輝いて見えました。
ですから、野球少年の小さい頃からの想いとして、石毛さんと同じく駒大を出てプリンスホテルを経て西武ライオンズにドラフト1位で指名され、「お前しかいない」と石毛さんから言われて背番号7を引き継ぐことが夢でしたから(笑)。
――まさに憧れのスーパースターですね。
その後、社会人として起業していった中で、駒大の同窓会で石毛さんと同じく駒大OBであり、元DeNAの監督でもある中畑清さんとご縁を持つことが出来ました。私の結婚式でもお得意の歌を披露していただくぐらいかわいがっていただきました。そして、更には、私の仕事に間を取り持ってくれて、石毛さんが宇都宮まで講演に来てくれた時が石毛さんとの初対面でした。それ以来、ことあるごとに気にかけていただき、石毛さんのおかげで今の自分があると思っています。
自分の小さい頃からのスーパースターとのご縁も作ることが出来て、改めて同じ大学を選んで良かったなぁと感じています。
――それは凄いですね。なんというか、小さい頃からの憧れの人と縁を持ってそして一緒に仕事をしてしまうというのが凄いです。
たまたま、運がいいだけだと思うんですが、一つひとつの選択の中で「自分はこれが好きだ」ということを周囲に言い続けていくことは大切だと思ってます。言い続けたことによって周りの人が気に留めてくれたりして、機会があったときに思い出して、繋げてくれるみたいな。
ですから、自分が好きな物や憧れているものはどんどん周囲に公言をすべきだと思います。
周りも自分が「何々を好きな人」と覚えてくれて配慮してくれることがありますからね。
――まさにそうですね、自分が思っていることを前に出すことによってそれが広がったりするんですね。
石毛さんが昔に早朝に放送されていた西武ライオンズの番組の中で受けていたインタビューの中で今でも記憶に残っている言葉があるんです。それは、「一番前を走るものにとって見本や手本などはないから、悩んでいる暇があったら、まず、前に進むよう努力する」という言葉で、小学生だった私には凄く印象に残りました。石毛さんにその言葉について聞いた時には「そんなこと言ったか!?」と言われたのですが(笑)
――その言葉、カッコいいですね。石毛さんへの憧れが自分の考え方に影響を及ぼしてその後の自分に結びついているというところが凄いというか素晴らしいと思います。
おそらく、ある意味、私は思い込みが強いタイプなのかもしれません。何か自分で上手くいかないことがあっても、仮想のメンターとして、「この場面、石毛さんだったらどうするだろう?」と想像してみるんです。仕事でも、この場面でチームの成果を最大化するために、先頭打者ホームランを狙うか、犠牲バントか、チームをどう盛り上げるかなんて野球に例えて意識して動いたり(笑)
そのように置き換えて考えてみたところから意外と打開策が生まれたり、問題解決出来るところが結構あったりします。
つまり心の拠り所なのだと思います。自分が小さい頃から信じてきたものを貫こうと思った時、行き着く選択肢がそこにいくということなのではないでしょうか。今では、私の中の石毛さんの妄想が膨らんでかなり巨大になってますが(^^)
――なるほど、そういった原体験を通して行き着いた先が起業だったんですね。
そうですね、私は大学卒業後に、モノやサービスを生産する企業と消費者をどう繋げていき、消費者の行動をどう起こし、お金に換えて経済を回していくのかという消費者と企業の関係性モデルを一つでも多く見たいと思い、広告会社を経て独立起業しました。
広告会社ではドラッグストアチェーン、ホテルなどの様々な企業のプロモーションキャンペーンに関わりました。
プロモーションキャンペーンに関わると、そのクライアントの社員のようなものなので、それによって多くの業界のコミュケーションモデル、ビジネスモデルを見ることが出来ました。
その広告会社で働いていく中で、少しずつですがもっと自由にやっていきたいという気持ちが芽生えてきたんですね。
私たちの世代は、学生時代から起業するという人も増えてきた時代でもあったのですが、私はまずはあえてサラリーマンを経験し、その経験を強みに活かした起業も出来るのではないかということを思って就職しました。人生は、短距離走でもなく、もちろん、正解もなく、ましてや誰かと比較するものではないので、その時代その時代に自分にしかない体験を経験にかえ、RPGのように少しずつレベルをあげて、私なりの人生を歩んでいきたいと思ってました。
起業を決めたのは29歳で2004年のことだったのですが、当時は1円起業などの政策があったこともあり、起業を後押しするムードがあったことも大きかったかもしれません。
起業後はお客さんにも恵まれ、13年続けることが出来ているので、結果的には「良くも悪くも全て自分で判断出来る」ということを選んで正解だったと思っています。