■プロフィール

1975年11月6日生まれ。東京都足立区出身。埼玉県吉川市立南中学校を卒業後、川越東高校8期生として入学。東京デザイナー学院(建築デザイン学部)を卒業後、東京福祉商経専門学校から東京福祉大学の社会福祉学部へ編入。その後、サッカー指導者として、NPO法人BOA Sporte Clubフットサルディレクターおよび同理事就任、芸能人女子フットサルチーム南葛シューターズ ヘッドコーチ、汐止フットボールクラブ フットサル専任コーチと様々なチームや指導現場で多岐に渡り活躍。

また平成26年には、キャプテン翼の作者である高橋陽一さんとコラボレーションしたスポーツウェアなどを扱うブランドとしてSOLUM株式会社を設立。世界を跨いだサッカーブランドとして注目を集めている。

――本日はよろしくお願いします。古川さんは高校まで吉川市育ちと伺っております。

そうですね。生まれは東京の足立区なんですが、ほとんど埼玉育ちですね。幼稚園から高校までは埼玉にいました。そこから浪人生活があったのですが、勉強が上手く行かず、あまり好きになれなかったこともあって、父親が測量などを行う土地家屋調査士でそれに関連する建築・デザイン系の専門学校に進んだんです。

それと、高校時代はちょうどファッション誌で、今で言う読者モデルが流行っていた時期だったんですが、学生モデルとして当時流行っていた複数のファッション雑誌に出ていたんですよ。

――えー! 高校時代からそんな経歴も持っていらっしゃったんですね。高校当時からモデル活動を行なっていこうという想いがあったということなんですか?

当時は高校生なので男子校でも単純に女子高生にキャーキャー言われたいという想いだけだったんですけどね(笑)。

高校卒業前くらいには「どこも所属していないならウチでやってみない?」という感じで事務所の誘いがあったんです。それからトントン拍子でC.Cレモンなど色んなCMにも出させていただいて、さらに当時の売れていたストリート系雑誌のメインに抜擢されたんです。ですので、その頃は専門学校に行きつつモデル活動するという二足の草鞋を履いていました。

モデル活動とともに役者の勉強などもしていたんですが、芸能活動だけではなかなか食べていけないなと感じ始めていたところ、ちょうど自分の後輩が突然売れてしまったんですね。それが結構ターニングポイントだったんですよ。永井大っていう役者なんですけど。

――えっ、めちゃくちゃビッグネームじゃないですか!

まさに直属の後輩だったんです。彼はスーパー戦隊シリーズのレッドとしてオーディションに受かってそこから活躍していくわけなんですが、自分とは同じ事務所の先輩として一緒に楽しく遊ぶような仲でした。自分はそういったオーディションでは当時髪の毛を坊主にしてしまったりしてなかなか引っかからなかったんですが、その直後に彼がブレイクしていったんです。

後輩が売れていったことに対してはやはり悔しいと思う気持ちはありました。そんな中で、友達を通じてサッカーの指導者の手伝いを行う機会があったんです。そこで「子どもに伝える」という教育に対して凄く興味を持つようになりました。それからだんだんとサッカーの指導にのめり込んでいって、大学に編入し直し、教員免許を取得したんです。それから近隣の高校サッカー部などの指導をしていくなどの活動をしていったタイミング辺りが、芸能活動を一切辞めようと決めた頃でしたね。

あの業界では自分の努力だけではなく、やはり運も必要だなと感じていたんです。まあ運も実力のうちと言ってしまえばそれまでなのかもしれないのですが。

――いえいえ、まあ特殊な業界ですからね。サッカーの指導との出会いが大きなターニングポイントだったんですね。ちなみに川越東に進学なさったのは何か理由があったんですか?

実は割と不純な動機ではあるんですが、自分と同じ中学校から川越東に進学した生徒が4人いて、他の3人が頭が良かったので「自分もここに行けば頭良く思われるのかな?」なんていう想いからだったんです(笑)。

当時からサッカー強豪校として有名だった某私立高校に行こうという想いもあったんですが、全国優勝経験のある県内中学校の10番がその私立高校に行くという情報を聞いたんです。彼とは自分とポジションも完全に被っていて、さらに「どうしても勝てない。こういう奴がプロに行くんだな」という想いを腹の底で感じていたプレーヤーでした。そこでその私立高校を避けて川越東に進んだということもありましたね。

今年2017年1月に完成した川越東サッカー部が使用する人工芝グラウンド

――川越東のサッカー部時代のお話を少しお聞かせいただけますでしょうか?

ええと、1年生の時に埼玉県西部のトレセンメンバー(その地区の優秀な選手の選抜)の話も出ていたのですが、当時は凄く反発する生徒だったんです。顧問の田中康夫先生に対してもかなり反発してしまっていたところがあって、実は2年生の途中でサッカー部を一度辞めているんですね。そこから髪をロン毛にしてしまって。

ですが、その後自分たちの代になりかけのちょうど3年生の先輩が引退する時に、サッカー部のみんなが田中先生のところに行って、「もっと上に行くためにフルさん(当時の呼称)をサッカー部に戻させて欲しい」と呼びかけてくれたんです。そこで田中先生から言われたんです。「仲間がこう言ってるぞ」と。「ただその前に髪を切ってピアスを取れ。」とも言われましたが(笑)

――それってまるでスラムダンクの三井(※)ですよ!

(※)90年代に絶大な人気を博した少年ジャンプ連載のバスケットボール漫画。登場人物の三井寿が才能を持ちながらもバスケ部を退部し、素行不良状態となっていたが、恩師である安西先生の元で号泣しながら「バスケがしたいです・・」と再入部を誓うのは屈指の名シーンとして有名。

そう、まさにそんな感じだと思っていたんですよ。自分にそれがリンクして、(スラムダンクの三井のように)髪を短髪にして。

――その流れも(スラムダンクの三井)と全く一緒じゃないですか!

とにかくサッカーに対しての自信はあったんですよ。ただ、実際はマンガのようになかなか上手くいかなかったですね(笑)。

田中康夫先生とは本当に色々とあったんですが、今でも繋がってます。

――高校当時は色々あってた上で、今でも田中先生と関係を持っていらっしゃるというのは、本当に素晴らしいことですね。川越東のサッカー部には現在でも顔を出されているんですか?

定期的にOB会やOB戦をを行なっていますよ。2つ上の先輩がそういう活動を積極的に行なってくれているんです。自分が属している会で、吉本興業から政治家の方まで「キャプテン翼」が好きな色んな業種の人が集ってサッカーを行う「翼会」というのがあるんですが、そこにも川越東の先輩方が何人かいらっしゃいますよ。

――そうなんですね。サッカーというキーワードから本当に色んな繋がりが生まれているように思います。

ええ、もう子どもの頃に「キャプテン翼」に出会ってからずっともうサッカーひと筋ですね。

連載当時、サッカー少年は必ずと言って良いほど影響を受けていたキャプテン翼

――古川さんは(キャプテン翼の作者である)高橋陽一先生とお仕事をされていらっしゃいますが、高橋先生との出会いはどのようなことがきっかけだったんですか?

フットサルをよく行っていた当時、芸能事務所のマネージャーが某大手スポーツブランドの社長と仲が良かったんですね。その社長から「フットサルを広めてくれ」という依頼を受けて、モデル、俳優、声優など色々な業種の方々とチームを作りプレイしていたのですが、そこでよく高橋先生のチームと対戦していたのがきっかけでした。

高橋先生のチームと試合をしていた中で私が大怪我をしてしまったことがあったんです。そこで救急車が来た時に高橋先生が一緒に乗って病院に搬送してくれたんです。包帯に絵を描いたりもしていただいて、それから頻繁に連絡を取る様になりました。

――またしても胸が熱くなるようなお話ですね。

それから雑誌で高橋先生が連載されているフットサルのコーナーに呼んでもらったりしていました。また、「南葛シューターズ」という芸能人女子フットサルチームが立ち上がったんですね。高橋先生はその監督で、自分がヘッドコーチを務めたんです。その活動の中で週2,3回ご一緒させていただいたりもしました。

さらに「キャプテン翼U-23」の中で子供たちにサッカーを教えながらフットサルをしている「古川選手」として登場させていただいたんです。

――そのキャプテン翼にキャラとして登場したというエピソードは本当に凄いです。高橋先生からは事前にお話があったんですか?

いえ、実は突然のことだったんです。私も(キャプテン翼U-23が)連載されていたヤングジャンプをコンビニで立ち読みして知ったんですよ(笑)

――うわー、そうだったんですね(笑) キャプテン翼の登場人物として登場して、それを立ち読みで突然知るなんて経験をした方なんて世界的にもあまりいないですよ(笑) キャプテン翼はそれこそ世界的に有名な漫画ですし。

キャプテン翼にキャラクターとして登場するという貴重な経験を持つ古川さん

ええ、ですので外国の方もよく(SOLUMの)お店に来るんですよ。先日はスペイン人の方がいらっしゃって、(キャプテン翼関連の商品に)物凄い興奮されていて。イタリアなどでも人気も凄いですね。トッティも(キャプテン翼の)大ファンですし。

イギリスでも人気が凄くて、先日、高橋先生と共にポール・スミスさんとお会いすることが出来たんですね。ポール・スミスさんもマンガが大好きな方でウチの商品を見ながら興奮なさっていました。

――えっ、もう出てくる名前がビッグネーム過ぎて、一瞬耳を疑うレベルですよ。現在のアパレルのお仕事についてはいつ頃から開始されたんですか?

法人化したのは4年くらい前ではあるんですが、それまでもフットサルクリニックやサッカースクールを行う中で、もっとカッコいいものを着たいという想いから自分たちのチームユニフォームやウェアなどを作ったりしていたんです。

そこから高橋先生の協力もあり、キャプテン翼のコンテンツを取り入れる様になりました。当時生まれた息子の写真を高橋先生に持っていって描いていただいたところから「ショウ」というブランドのキャラクターが産まれたんです。それが大体8年くらい前のことで、そのタイミングで現在のSOLUMというブランドを立ち上げました。

――なるほど、高校当時からこだわっていたファッションがやがてサッカーとリンクしていったんですね。

そうですね、高校生当時はファッションが本当に好きでしたね。電車を乗り継いで、原宿行って渋谷行ってというのをいつもやっていました。その当時にハマりすぎていた所もあったので、今は逆に飽きてしまっているところがありますね。ジャージしか持ってないんじゃないかと思われるくらいほとんどジャージしか着てないですし(笑)

――当時から興味を持ってやっていらっしゃったことがやがて繋がって続いて今に至っているというように思います。子どもへの指導についても経験の中で得た考え方などで影響されている部分はあるんでしょうか?

そうですね、子どもへの指導でも過去の自分への反面教師ではないですけど、「こういう奴もいるんだよ」ということは伝えたいですね。先生の言いなりになりすぎてしまう真面目な子ばかりではなく、自分で判断して行動出来る子を褒めてあげたいとか、自分自身の経験ではあまりなかった褒めていく指導法を心掛けています。

――自分が学生時代で見ていた部活動も割と先生に忠実であることに重きが置かれていた傾向がありましたが、古川さんの自分の判断で行ったことに対する褒めるという姿勢は凄く良いですよね。指導の傾向がそういった方向に段々と変わってきているということなんでしょうか?

ええ、変わってきてますね。決断力や状況判断能力がサッカーでも重視されて指導の現場にも反映されていると思います。東京福祉大学に通っていた際は教育心理学や児童心理学を特化して学んでいたので、そういったアプローチの方法にも重きを置いています。

――デザインから福祉という経歴も異業種から異業種というように思いましたが、そのように繋がっていったんですね。お話を聞いていると、行動範囲の広さと感じます。

学生時代はちょうど自分のアイデンティティというか、自分が何者かを探ろうとしていた時期だったのかもしれませんね。何でこれをやらなければいけないんだという反発心が自分を動かしていたようにも思います。改めてこう振り返ってみると面白いですね。

――赴くままに動くというか、面白そうなものに対する古川さんのセンサーが凄いですね。これからもお仕事として色んなことに取り組まれていくんでしょうか?

ええ、SOLUMのブランドについては、自分たちが「こういうの欲しかったけどなかったよね」と思えるものをコンセプトに作っています。キャプテン翼のキャラクター入りビブスは子どもたちの導入の部分でかなり掴みがあって、「俺は翼でお前は岬太郎ね」という感じで盛り上がってくれるんです。

それと、大空翼や日向小次郎の絵が入ったすね当てもあり、これはFCバルセロナの会長にお渡しした際、チームHPのトップページに掲載されたことでよい宣伝にもなってしまいました。

SOLUMが制作したキャプテン翼キャラクター入りのすね当て

――うわ、それも凄いことですね。淡白になりがちなサッカーウェアをワールドワイドで有名なキャラクターを使って面白みのあるものに変えているというのは新しい感じがします。

今は南葛SCというチームのフットサルカテゴリー、南葛SC MARE PARADAの監督も行ってますが、そのユニフォームもSOLUMで作っています。葛飾区からJリーグを目指そうという目標の下で始まったチームなんです。高橋先生も後援会長を務めていらっしゃいます。

――南葛SCというのもまさにリアルキャプテン翼ですね。

ええ。それと、秋田県の花輪という地区があって、そこは(キャプテン翼に登場する)立花兄弟の出身地とされている場所なんですが、花輪のサッカーチームに立花兄弟と同じユニフォームを提供したりしました。そこから南葛SCとの試合も行って、その模様は新聞にも掲載されたんです。

――なるほど、なんだか夢がある感じです。自分たちが子どもの頃に見てきたものを現実化させている方が川越東の卒業でいらっしゃったというのが凄いです。サッカーというキーワードを通してであれば何でも携わっていくような形で動いていらっしゃるんですね。デフフットサルやブラインドサッカーにも関わっていらっしゃると伺っております。

実は私の3番目の子どもが視覚障害を持っていたことが判ってそれが大きなきっかけではあったんですが、子どもの将来を考えてのことと、マイナーな分野にも日を当てたいという所から関わりを持つようになりました。ロービジョンフットサル日本代表キャプテンである岩田選手をSOLUMで支援してユニフォームを着ていただいていますし、聴覚障害者のプレーするデフフットサルでも日本代表の吉岡選手をSOLUMでサポートさせていただいています。

――古川さんの教育に対する姿勢があったからこそそういった縁も広がっていっているんですね。やはり教えるということが大きなコミュニケーションの機会になるんだなと改めて感じました。

(障害者スポーツへの取り組みは)イベントや企業研修などにもよく使われるんですよ。常日頃伝えている言葉も目隠しして視覚がない状態で伝えると分かりづらいところがあって、聞いたまま体を動かすとなると上手くできなかったり、この程度で伝わるだろうということを明確に伝えないと分からないということを実感出来るんです。

外国人サッカー選手も頻繁に訪れて購入していくというSOLUM店内に展示された品々

――なるほど。それも素晴らしい取り組みですね。最後になんですけれども、高校同窓会のインタビューということで、今高校生に向けたメッセージとして、常日頃サッカーのご指導などをされている中でこうした方がいい、こういう考え方を持った方がいいなどのお話をお聞かせいただきたいのですが。

大きな話になってしまうんですが、一つは「失敗は財産」ということです。自分のことで言うなら、中学生の時に他校にライバルがいるから川越東に行ったというのは、10番を着けていたかったのでそれを着けられるチームに行こうというお山の大将的な考えでもありますよね。勝負をしなかった時点で負けていたわけです。そこでもう少し何かチャレンジして失敗したり挫折したりすれば乗り越えられる部分があったのかなとも思います。

今でこそやらない理由よりもやる理由を探すという姿勢でいることが出来ているのですが、それが出来るようになったのは川越東時代も含めてたくさん挫折をしたからなんです。失敗しないように生きてきた中ではあるんですけれども、実は「ずっと失敗してきたから今があるんだな」という風に思います。

また、自分は仲間にも恵まれたとも思っています。地元の仲間、高校時代の仲間が今でもたくさん集まってくれますし、そういった仲間がいたからこそ自由に出来たということがあるんだと思いますね。皆さん、SOLUMで作ったユニフォームを買ってくれたり、他のSOLUM商品も沢山購入していただいています。

もう一つは、「人のせいにしない」ということです。これは自分の中でも昔からブレてなく、軸として持っている部分ですね。サッカーの試合で負けても、「アイツが悪い」ということになりがちですが、そうではなくて、もしミスをしないでずっとボール繋げていれば全部点になってるわけです。サッカーはミスが前提のスポーツで、ミスはしようと思ってしているわけではないから絶対に人のせいにしてはいけないんです。

ちょうど自分に子どもが生まれる前くらいに、指導者仲間と「ヨーロッパなどでは親父の小言というか代々続いている格言のようなものがあるけれども、日本ってそれがあまりないよね」という話をしていたんです。その際に自分たちが大事にしてきたことったなんだろうということを思い返した際に出て来た言葉が「人のせいにしない」だったんです。これがもう全部に広がっていくし、子どもの教育に一番適していると思います。息子の教育や指導の現場においても徹底していますね。

――なるほど、やはりブレない軸と共に芯が通ってますね。今日は本当に想像以上に面白いインタビューをさせていただけたと思います。古川さんのサッカーに対する情熱と知識をまた川越東に還元いただきたいです。

ええ、機会があれびぜひ。

――何だか川越東サッカー部の伝説の一部に触れる事が出来た気がしますね。これからも是非よろしくお願いします。本日は貴重なお話のお時間をいただきありがとうございました。

こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました。