――本日は宜しくお願いします。伝説の1期生であり、かつ私もVジャンプで育った世代としてあのスライムの漫画を手掛けられていた方ということでインタビューできて光栄です。
宜しくお願いします。
――事前に経歴を知って驚いたのですが、(埼玉県)東松山南中学校卒業なんですね。私も実は東松山市出身なんです。
あ、そうなんですね。生まれは(埼玉県)狭山市なんですけれども、中2の時に東松山に転校してそれからなんです。
――あ、そうなんですね。
そうですね。当時は本川越からバスに乗って通っていました。当時は新設校でほとんど何の情報もなく入ったところがありましたが、今では運動部の活躍や進学実績などが凄い印象です。
――一期生は創立間もないこともあって、先生方も若くて距離が近く、独特の雰囲気があったと聞いています。
全校生徒が100人でクラスが3つだったんですけれども、もうみんな顔は見たことあるような感じでしたね。次の期以降は500人、1000人と増えていったので、自分たちが3年生の時は先輩なはずなんですけど少数派だったので、少し肩身の狭い思いをしたりしていました(笑)。
――そうなんですね。確かに5倍以上違いますし。高校時代は柔道部だったんですよね?
ええ、国語の斉木先生が最初の担任で柔道部の顧問でしたので、印象に残っている先生としてよく覚えています。 柔道部の合宿は毎日の練習キツかったですが、そこで感じた達成感今でも役立っていると思います。
――高校卒業後は代々木アニメーション学院に入られたと伺っているのですが、その当時から漫画やイラストの仕事に就きたいと思っていらっしゃったところがあったのでしょうか?
子供の頃にドラえもんを読んで藤子不二雄先生に憧れているところがありましたが、漫画家になると具体的にはっきり目指していたということではなかったんです。
ただ、高校時代当時でもラクガキみたいな漫画を書いていて一部のクラスメイトに見せたりしていて、イトケン(同期の伊藤賢治さんのあだ名)がそれを見てお互いの将来の夢とかを話したりもしていましたね。
なので、漠然とアニメや絵を描く仕事はやりたいなとは思っていて、そういうのを勉強したかったので、代々木アニメーション学院に入学しました。
その後、あるファミコン雑誌の読者ページにドラクエの絵を投稿する中で、某編集プロダクションの社長にスカウトされて雑誌のイラストなどの仕事を行なっていたんです。
また、これは後から知ったのですが、その編集プロダクションの中で、ドラゴンボールの鳥山明先生のファンクラブ会報の仕事を行なっていて、あの鳥山明先生を見出したことでも有名な鳥嶋和彦さんとウチの社長が知り合いだったんです。