■プロフィール
1975年7月7日生まれ。埼玉県川口市出身。
川越東高校に8期生として入学。部活動では映画部、新聞文芸部に所属。2017年現在まで発刊され続けている新聞文芸部の部誌「文芸の艦隊」を創刊する。 高校卒業後、武蔵野美術大学映像学科に入学し、自主制作映画を製作。
卒業後は、ネット古書店経営、喫茶店経営などを行う傍ら、B級グルメなどのライターとして活躍。B級グルメのディープな視点による考察は界隈で高く評価されており、TBS「マツコの知らない世界」の「板橋チャーハンの世界」の回ではナビゲータとして出演した。
――そうですか(笑) やはりそう見えますか。
(インタビュースタッフを見て)なんか皆さん東高感に溢れてますね。
うん、皆さんももう卒業されてから結構経ってると思うけど、学校の中でばったり会ったみたいな。そのままスクールバス乗っても全然違和感ない感じ(笑)
――いきなり名言が出た気がします(笑) 東高卒業生が集うとそういう空気が出るのかもしれないですね。さて、本題ですが、山本さんは私が高校時代に所属していた新聞文芸部の先輩でもありますが、確か映画部としての活動も行なっていらっしゃいませんでしたっけ?
最初は映画部に属していたんですが、途中で新聞文芸部に移っているんです。そもそもの話でいうと、映画部があったから東高に入学したところがありました。 中学時代から映画をやりたいという想いがあったところから日芸(日本大学芸術学部)に入りたいと思っていて、日大豊山高校を受けるつもりだったんですが当時は偏差値が足りず、担任の先生から川越東高校を勧められました。ですが、地元の川口からはやや遠くてあまり行く人がいなかったんですね。
――大宮間のスクールバスでの通学もそれなりに時間が掛かりますしね。
そう、平日は渋滞で50分掛かる事もあったりして。その中で立って乗っていたりするとキツいし、さらにお腹痛くなったりするともう悲劇。
――東高あるあるネタだ(笑)
途中で降りて歩いて行くのも出来ないし。最寄りのバス停である治水橋交差点から歩いても30分くらい掛かるんじゃないかな。説明会の時は土曜日の日中だったこともあって20分くらいで着いたので「あ、これなら行けるかな」と思ったんですけどね(笑)
それと、その説明会で貰ったパンフレットに映画部の記載があって珍しいなあと。
通学に使用した川東生には色々と思い出が深いと思われるスクールバス
――入学時は映画部一本に絞っていたんですね。
ただ、実は映画部の活動があまり緩い感じではなかったんです。運動部の紹介VTRの作成などを行っていましたが、どちらかというとお堅いイメージでちょっと物足りなく感じていて、もっと自由な創作活動をしたいと考えていたところがありました。
そこでたまたまお父さんが俳人だという友人に出会って、彼と文芸活動をやりたいという話になったんですよ。
そもそも学生が映画を撮るというのは予算的にも技術的にも厳しいので、文芸ならペン1本で創作活動が出来るじゃないかという話で盛り上がって。でも当時は文芸部がなかったので、先生に相談したところ、「部員がいなくて新聞部に吸収されている」という話を聞いて、そこで新聞部の正式名称が「新聞文芸部」であることを知ったんです。それから顧問の熊谷先生を紹介されて、「じゃあ君達は今日から新聞文芸部ね」と、あれよあれよと部の所属になったんですね(笑)
そこから新聞文芸部の中で「文芸班」としての活動が始まりました。部誌の「文芸の艦隊」作成と、学校新聞である「ひんがし倶楽部」にも「文芸の艦隊」のコーナーを設けて、創作活動を行ないました。「文芸の艦隊」という名称は当時「沈黙の艦隊」というマンガが流行っていたことで、自分が割と適当に名付けた所が始まりなんですが、まさかそれが現在まで継承されるとは思わなかったですね(笑)
――20年以上も継承していますからね。「ひんがし倶楽部」と共にずっと続いている名称で、もはや変えられないくらい伝統化した感があります。部誌の「文芸の艦隊」から放たれるパワーも客観的に見ても凄いなと思いますし。
川越東高校新聞文芸部
今や全国大会には出場するほど盛んな活動が行われている
とにかく自分たちの好き放題にやっていましたからね。「文芸の艦隊」は文化祭の時に発行するという形になっているかと思いますが、それ以外のタイミングでもたくさん発行してました。さらに藁半紙見開き1ページの瓦版のような物を発行したりして、小説から映画評論まで本当に好き勝手に書きまくっていましたね。
――高校生だった当時に発せられるエネルギーっていうのは本当に凄いですよね。
逆にそれは自由に活動させてもらっていたということでもあるんです。
正直結構際どいような表現やテーマを扱っていた時もあったんですが、それらに対しても含め、部活動としてNGが出たことが一度もなかったんです。かといって中身を見ていないわけではなくて、顧問の熊谷先生はちゃんと見た上で中身には大きく口を出さない。そういったスタンスには本当に助けられました。
――あのスタンスは本当に素晴らしいですよ。自分も新聞文芸部の活動を振り返ってみると本当にそう思います。
それと、文化祭の時には「文芸の艦隊」を売るだけだとなかなか人が来ないから、古本を販売して飲み物も売るようなブックカフェをやろうと言って始めたのも当時からなんです。面白いのが、それが結果的に後に行う商売だったいうことですね。
今から13年前の2004年に千駄木で古本喫茶を始めたんですが、元々行なっていたネット古書店の売り上げを伸ばしたいというところから店を構えようということになった際に、「古本だけ売ってもなかなか厳しいからコーヒーでも出そうか」と思ったのがきっかけだったんです。でも振り返ってみると文化祭で「文芸の艦隊」だけ売っても人が来ないから飲み物でも出すかと全く同じで、発想が進歩してないってことなのかなあ(笑)
山本さんの経営する喫茶店「結構人ミルクホール」 (現在は出張喫茶のみ営業)
――いやいや、高校時代に原点が詰まっているってことだと思いますよ。大学は映像学科だったんですよね?
ええ、やっぱり映画監督としてカメラを持ちたいという想いがずっとあったので、大学は映像関係の学部のある大学を受け、そこで武蔵美(武蔵野美術大学)に引っかかったんです。とはいえ、そのまま映画の道を進んでいくにはやはりとても厳しくて、映像学科を卒業しても映画関係に行った人は本当に少なかったりするのが現状だったんですが。
――映画撮影自体はいつからやり始めたんですか?
中学生の時がちょうど8ミリビデオが出始めた頃だったので、それを使って自主制作映画は撮っていました。それをぴあフィルムフェスティバルなどの色んな賞に毎年応募したりもしていましたよ。全然通らなかったんですけどね(笑)
――私の先輩に対する個人的なイメージとしても、文芸活動をやりつつも最終的には映画の道に進みたい方なのかなという風に見えていました。
そう、だから実は新聞文芸部に所属しつつも「ちょっと映画部行ってきます」と言って技術的な部分で協力したりすることもあって、実質的に兼部状態でもあったんです。そうだとしても、熊谷先生からは何も言われなかったですね。本当に先生方の協力があってこその活動でした。「文芸の艦隊」も思った以上に先生方が読んでくれていたんです。生徒よりもむしろ先生が読者という。職員室の入り口の新刊の雑誌などの所に置いておくと、割とすぐなくなっていたりしましたし。
また、もう東高にはいない先生なんですが、当時図書館の管理をしていた小野寺先生とは特に想い出が多いんです。図書館にかなり入り浸ってところもあって仲良くなったんですが、当時は図書館にマンガが置いてあったりしたんですよ。
――え、そんな時代があったんですか?
それも実は小野寺先生が置こうというところからの話が産まれて、自分も家から要らないマンガを一杯持ってきて勝手に登録したりしちゃったりして(笑)
そしたら、ある日そのことについて別の先生に呼ばれたんです。「こりゃ怒られるな~」と思って行ったら、「なんか図書館にマンガを置いているそうだね」と言われたですが、「ウチの息子が要らないのがあるからこれ置いてよ」とむしろ寄贈されたという(笑)結局放課後にみんな読みに来てしまうので3ヶ月くらいで廃止になったんですけどね。
――それはもう伝説の域ですね(笑)
それと、図書館で映像のライブラリを作ろうとしていたところもあって、当時はレーザーディスクの時代だったんですが、購入するタイトルを小野寺先生と選ばせてもらったり、面白い映画を見つけたりするとそれをお互いに薦め合ったりもして。さらに倫理の先生でもあったので人生相談に乗ってくれるような先生でした。本当に小野寺先生との想い出は尽きないですね。
川越東高校の図書館
蔵書、学習室共に豊富な揃えを誇る
――映画については、中学生の頃からずっと興味を持っていらっしゃったと伺っていますが、活字についての興味はいつ頃生まれたんでしょうか?
活字については高校の新聞文芸部時代からですね。実はそれまで活字はむしろあまり好きではなくて。自分の好きな映画やマンガ、アニメについて評論を通して活字に興味を持ったので、活字はあくまで興味のあるもの延長としてあるものに過ぎなかったんです。
映像表現の中から、その元ネタとなったものを追いかけていく中で、それが小説であったり、評論であったりしたということだけなんです。
――なるほど、映画のバックボーンにあるものを追求していく中で、活字の表現に出会っていったんですね。現在では個人ブログでの活動もされていらっしゃいますが、こちらは何かきっかけのようなものがあったんですか?
千駄木で店を出すという際に、自分の興味、関心を知ってもらいたかったということがきっかけですね。お店のPR活動ではあるんですが、それよりもこの人どういう人なんだろう、どういう食の嗜好を持っているんだろうということを伝えたら、お店のイメージが見えてくるのではと思って始めたんです。
――店を経営しつつ、食べ歩きをしてブログや同人誌などにどういう味が好きかを表現していったということですね。
ただ、自分の店を持ってしまうとなかなか行きたいと思う他の店に行けないんですね。だから結局自分の店が空いていない時間に営業している店に行くしかなくて、そういう所は自分の店とタイプが違うんです。いわゆるB級グルメと呼ばれる領域で、始めた当時そのジャンルが流行っていたこともあって、それについて書いていたところに読者がついてくれて。そこから今のB級グルメについてのライター活動が始まっていったんです。
――「マツコの知らない世界」に出演されたのはどういうきっかけだったんですか?
あの番組が続いていた中で、割と有名な各ジャンルの専門家については一通り出てしまっていた状況になっていて、誰か新しい人を探そうとしていた最中だったんです。そこから自分が書いた「しっとりチャーハン」の同人誌を番組スタッフが見つけてくれて声を掛けてもらったのがきっかけですね。
ですが、自分も喫茶店の仕事の片手間でのライター活動だったし、B級グルメのテーマも毎回変わるから、そういう人じゃないですよと最初はお断りしたんです。それでも喫茶店やりながらB級グルメのライターをやっているというのは何か面白そうな奴なんじゃないかなと思ってくれていたようで、制作側としても早く手を出したいというところから改めて話が進んでいったんです。
山本さんが製作したB級グルメ本。扱うジャンルは街中華屋から定食屋まで多岐に渡る
――あの「しっとりチャーハン」を紹介した回は凄く反響があったと聞いています。紹介した板橋のお店が翌日大行列になったらしいですし。ちなみに食べ歩きにハマったのはどういうきっかけだったんですか?
大学生の時に一人暮らしを始めたばかりのタイミングが始まりでしたね。
ちょうど外食に目覚めるというか、ちょっと家庭の味から抜けたいなと考えるような時期だったと思うんですが、割と安い値段で色々な味が食べられるのはラーメンくらいしかなくて。大学生活の中で夜な夜な遊んだ後にラーメン屋に行こうとすると脂っぽい味を出す店が多くて、それらに頻繁に行くようになったところがきっかけだったと思います。
昔は都内にあるラーメン屋の絶対数も今ほど多くなくて、競合相手も少なかったから正直美味しいとはいえない店が多かったんです。
だからもう美味しいという噂を聞きつけたら多少遠くても行くような感じでしたね。時間が取れる学生だからこそ出来たことですが、それがまた楽しかったんですよ。
幼い頃だと外食に行ったとしてもファミリー向けの店が多くて、味の違いがよく分からなかったんですが、ラーメンの食べ歩きから店ごとに味が違うということに目覚めていったんです。
――確かに子どもの頃だともう何でも美味しいと感じるくらいですからね。そこから背伸びをしていきたいという感覚の目覚めはとてもよく分かります。
それと、立地など背景的な部分にも目を向けるようになりましたね。
例えば、車文化が根付いていった中で、物流手段の変化によって街道沿いにトラックの運転手などが好むような脂っぽいラーメンが増えていったというように、ラーメン屋って時代背景や地域性というのがはっきりと出るんですよ。
――なるほど、ラーメン一つでそういう捉え方が出来るんですね。
元々映画撮影を行う中で、ロケハン(ロケーションハンティング:撮影場所探し)が特に好きだったんですね。実際にロケハンに行って背景を選んで行こうとする中で、店に入ったりすると地域性や街の雰囲気が見えてくるんです。
そしてさらにもっと土着的なところを見たいという想いが出てきて、大衆食堂や大衆酒場にも興味が移っていったんです。土着度が高い地域ほど面白い人が多いんですよ。
例えば昼間からお酒飲んでいる人もいたりするわけなんですけど、それに違和感を持つのは平日9-17時で働いている勤め人の感覚なんです。平日に働いている人のために休日に働く人がいるわけですから、逆にそういう人達のための店が必要だったりするんだというのも見えてきて。
「街の裏側から見える原風景を見るのが好き」と語る山本さん
――うーん、なるほど。やはりただの食べ歩きを超えてますね。店の背景にあるものを洞察していくわけですから。
今になってB級グルメにも目が向けられるようになったんですが、それはイケイケドンドンだったバブル時代と比べて「古いものを振り返る」という行為が否定的でなくなってきたところによりますね。経済が成長している中では、振り返るという思考自体がネガティヴに捉えられがちなところがありました。
そういった振り返る行為がマイナス思考でなくなっているという状況であるにせよ、煌びやかな世界を引きずっている人たちもまだいるわけです。そういった陽の当たっている部分とは異なる影の部分が肥大化しているのを街の裏の風景として見ていこうとしたんです。これは自分が影響を受けた映画監督の押井守さんが先駆け的に行なっていたことでその方法論にもとても影響を受けました。自分はそういう見方で映画や小説を作りたかったんです。それが創作の原点ですね。
――うん、まさにそうなんですよね。山本先輩には、所謂一般的なスポットが当たるものとは異なる「こういう目線もあるんだよ」ということを伝える面白さについて、私自身がとても影響を受けたんです。
上手いこと言うねえ(笑)
食べ歩きしたことなどについて、テレビ番組やブログなどで通じて表現することで皆さんから多くのリアクションをいただいているので、そういった内容が発信出来るなら今後もメディアに協力したいと考えています。
――今後についてはライターとしての活動がメインになっていくような形になるんですか?
そうですね。ライターとしては、リクルートのホットペッパーが行なっている「メシ通」というサイトがあるんですが、そこで記事を書かせて貰っているのでそれが中心になっていきそうです。
(「メシ通」で山本さんがペンネーム・刈部山本として執筆した記事はこちら)
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/archive/category/刈部山本
また、今まで出してきた同人誌を電子書籍化してkindle(amazonの電子書籍関連サービス)などでの販売も行っています。
また、喫茶店自体は閉店になってしまいますが、ケーキの通信販売と出張喫茶での活動は今後も続けていく予定です。
――なるほど、今後も山本さんの創作活動には要注目ですね。高校時代を原点としたモノの見方や創作活動が現在に繋がっているというところで、まさに同窓会に相応しいインタビューが出来たと思います。本日はありがとうございました。
山本さん自家製のチーズケーキ
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